大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 平成7年(ワ)4090号 判決

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告は、原告に対し、金一五一一万七六〇〇円及びこれに対する平成七年五月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、暴力団員らが、高齢で一人暮らしをしていた訴外亡甲野花子(以下「甲野」という。)から、その財産を奪取しようと共謀のうえ、公証人に対し、債権者を右暴力団員、債務者を甲野、借入額を一〇億円あるいは二〇億円とする二通の虚偽の内容の債務承認及びその履行に関する契約公正証書の作成を嘱託したところ、右公証人がかかる契約の無効等について審査を尽くさなかったために右嘱託どおり二通の虚偽公正証書が作成され、このため、甲野は、右各公正証書の無効等を争う別件訴訟を提起せざるを得なくなり、そのために要した印紙代・弁護士費用等の損害を被ったとして、甲野から被告に対し、国家賠償法一条に基づき右損害の賠償を求めた事案である。

なお、甲野は、その後、死亡したことが判明し、本件訴訟は、甲野相続財産を原告として維持されている。

一  基礎となる事実(証拠の引用のない事実は当事者間に争いがない。)

1(一) 甲野は、大正八年一二月一五日生まれの女性であり、和歌山市《番地略》に居住していた。

甲野の戸籍には、和歌山市長に対する届出により、平成三年二月四日、甲野が訴外乙山太郎(以下「乙山」という。)を養子とする養子縁組がなされた旨が記載された。

(二) 公証人訴外丙川松夫(以下「丙川公証人」という。)は、昭和六四年一月六日、大阪法務局所属の公証人に任命され、丙野公証役場内において勤務している。

2(一) 丙川公証人は、平成三年五月、丙野公証役場において、訴外丁原竹夫(以下「丁原」という。)の代理人である訴外戊田梅夫(以下「戊田」という。)及び甲野の代理人であると称する乙山(当時は、前記養子縁組の届出により「甲野」姓であった。)から嘱託を受け、丁原を債権者とし、甲野を債務者とする別紙公正証書目録記載の各公正証書(以下、平成三年第五〇〇号の公正証書を「第一公正証書」、同年第六五三号の公正証書を「第二公正証書」といい、両者を併せて「本件各公正証書」という。)を作成した。

(二)乙山らは、丙川公証人に対し、右各嘱託の際、いずれも、甲野が公正証書作成嘱託について乙山を代理人に選任した旨記載された委任状(以下、第一公正証書作成嘱託に関する委任状を「第一委任状」、第二公正証書作成に関する委任状を「第二委任状」といい、両者を併せて「本件各委任状」という。)及び甲野の印鑑登録証明書を提出し、また、甲野が丁原から、平成三年四月二六日、一〇億円を借り受けたこと(以下「第一消費貸借」という。)が記載された「借用証書」と題する書面(以下「第一借用証書」という。)ないし甲野が丁原から、同日、二〇億円を借り受けたこと(以下「第二消費貸借」という。)が記載された「金銭借用証書」と題する書面(以下「第二借用証書」といい、第一借用証書と併せて「本件各借用証書」という。)を提示した。

3 甲野は、乙山に対し、平成四年、前記養子縁組の無効確認請求等の訴えを和歌山地方裁判所に提起し(同裁判所平成四年(タ)第六号事件)、両者は、平成五年一〇月二八日付の裁判上の和解に基づいて、協議離縁の届出をした。

4 さらに、甲野は、同年一二月二七日、丁原に対し、第一消費貸借及び第二消費貸借による合計三〇億円の借入金債務が存在しないことの確認並びに本件各公正証書の執行力の排除を求める訴えを和歌山地方裁判所に提起した(同裁判所平成五年(ワ)第七五八号事件、以下「別件訴訟」という。)。

丁原は、甲野に対し、右訴訟事件において請求原因事実を全て認め、平成六年九月一日、甲野の請求を全部認容する判決が言い渡され、右判決は確定した。

5 原告代理人らは、被告に対し、平成七年四月二五日原告を代理して本件訴えを提起したが、甲野は、平成七年七月一〇日、死亡した。

甲野には相続人のあることが明らかでないため、平成八年一月三〇日、和歌山家庭裁判所において、被相続人甲野の相続財産管理人に弁護士田中祥博が選任された(同裁判所平成七年(家)第一〇五七号相続財産管理人選任申立事件)。

二  原告の主張

1 本件の経緯

(一) 丁原、乙山、戊田及び訴外甲田春夫(以下「甲田」という。)らは、いずれも暴力団員であったが、平成三年ころ、甲野が一人暮らしで知的能力に問題のあることを奇貨として、真実は丁原から甲野への貸付けがないのに、債権者を丁原、債務者を甲野とする一〇億円の公正証書を作成することにより、甲野の財産を奪取することを共謀のうえ、甲野をして第一借用証書の用紙に署名させ、丁原らにおいて甲野の実印を押印のうえ、空欄を補充し、第一借用証書(借入額一〇億円)を作成した。

さらに、丁原らは、真実は甲野が乙山に対し公正証書作成の嘱託について代理権を付与したことがないのに、甲野をして右嘱託用の委任状用紙の「職業」欄に「農業」と記載のうえ「署名押印」欄に署名させ、さらに、丁原らにおいて同欄に甲野の実印を押印し、代理人氏名を「甲野太郎」と記載して第一委任状を作成した。しかし、右委任状の裏面の「債務承認及び履行契約条項」欄(以下『委任事項』欄」という。)及び表面の作成日付は空白のままであった。

乙山及び戊田は、平成三年五月一五日ころ、丙野公証役場を訪れ、丙川公証人に対し、それぞれ、甲野あるいは丁原の代理人である旨を申告したうえ,第一消費貸借について公正証書の作成を嘱託し、その際、第一委任状を提出するとともに、第一借用証書を提示した。

右両名は、その際、暴力団員らしい人相・風体をしていた。

丙川公証人は、乙山に対し、その職業を尋ねたが、乙山から会社員である旨返答されると、それ以上に勤務先の名称・所在地等を尋ねなかった。

また、第一借用証書は、いわゆる消費者金融用のもので、一〇億円の借用証書としては安易・貧弱で、物的担保等に関する記載もなかったが、丙川公証人は、右両名に対し、第一消費貸借が有効に存在していることを確認するための質問はしなかった。

丙川公証人は、乙山に対し、第一委任状の「委任事項」欄及び作成日付を補充するよう指示し、それに記載すべき内容を口授したので、乙山は、その場で右各欄を補充した。

こうして、丙川公証人は、右嘱託を受理し、その後、第一公正証書を作成した。

(二) さらに、丁原らは、真実は丁原から甲野への貸付けがないのに、借入額二〇億円の公正証書を作成することを共謀のうえ、甲野をして、第二借用証書の用紙に署名させ、丁原らにおいて甲野の実印を押印のうえ、空欄を補充し、第二借用証書(借入額二〇億円)を作成し、甲野をして、公正証書作成の嘱託に関する委任状用紙の「職業」欄に「農業」と記載のうえ「署名押印」欄に署名させ、さらに、丁原らにおいて同欄に甲野の実印を押印し、代理人氏名を「甲野太郎」と記載して第二委任状を作成した。しかし、第二委任状の「委任事項欄」や作成日付は、第一委任状の場合と同様に空白のままであった。

乙山及び戊田は、平成三年五月二九日ころ、再び丙野公証役場を訪れ、丙川公証人に対し、それぞれ甲野あるいは丁原の代理人である旨を申告したうえ、第二消費貸借についての公正証書の作成を嘱託し、その際、第二委任状を提出するとともに第二借用証書を示した。

丙川公証人は、乙山らに対し、第一公正証書の作成嘱託を受けた際と同様、第二消費貸借の存否等事実関係について説明を求めることはなく、乙山に対し、第二委任状の「委任事項」欄や作成日付を補充するよう指示し、それに記載すべき内容を口授したので、乙山は、その場で右各欄を補充した。

丙川公証人は、右嘱託を受理し、その後、第二公正証書を作成した。

2 丙川公証人の過失

(一) 公証人の注意義務

公証人は、法令に違反した事項、無効な法律行為及び無能力によって取り消しうる法律行為について公正証書を作成してはならない(公証人法二六条)。

このため、公証人は次の注意義務を負っている。

(1) 当事者や代理人の陳述(同法三五条)、提出が義務づけられる委任状(同法三二条一項)・印鑑登録証明書(嘱託人の確認に関し同法二八条二項、三一条、委任状の真正の証明に関し同法三二条二項)、その他の書面等を点検・検討して、嘱託にかかる法律行為に関し法令違反ないし無効原因の存否、代理人と称する者が公正証書作成嘱託の代理権を有しているか否か、あるいは、右代理人に対する委任内容と作成嘱託にかかる公正証書の内容が一致しているか否かを審査しなければならない(審査義務)。

これらを審査する資料としては、社会的現象や事件等の「公知の事実」はもちろん、関係者の人相・風体、当該公証事務及びそれ以前の事務処理の過程で知った事実等、「当該公証人に顕著な事実」も含まれるというべきである。

(2) 右審査の結果、法律行為の有効性、当事者の法律行為能力、代理権の存否等について疑いがあれば、公証人は、代理人や当事者に対し注意をし、必要な説明を求めなければならない(公証人法施行規則(以下規則という。)一三条一項)。

(3) 右説明によっても右疑いが解消しなければ、嘱託を拒むべき正当な理由があるから(公証人法三条)、公証人は、右嘱託を拒否しなければならない。

(二) 審査義務違反の疑い

本件では、本件各借用証書や本件各委任状の各記載の内容・方法及び乙山・戊田の人相・風体などからすれば、以下のとおり、第一消費貸借及び第二消費貸借の存在ないし有効性、甲野の乙山に対する本件各公正証書作成の嘱託に関する委任の有無に関して、疑いを持つべき状況があったのに、丙川公証人はこれを看過して本件各公正証書を作成したから、丙川公証人には前記審査義務に違反した過失がある。

(1) 甲野の知的障害

本件各借用証書、本件各委任状における甲野の署名、住所の記載方法、印鑑登録証明書から明白な甲野の年齢に照らせば、丙川公証人としては、甲野の知的障害(老人性痴呆の可能性もある。)、ひいては、第一消費貸借及び第二消費貸借の存在を疑うべき客観的状況があった。

(2) 第一消費貸借の不存在ないし無効の疑い

第一借用証書は、いわゆる消費者金融用の契約書の用紙を流用したもので、一〇億円の借用証書としては安易・貧弱であること、差入手形や不動産担保について記載されていないこと、甲野自身による記載が住所・氏名しかないことが書面上明白なこと、乙山・戊田らが持参した第一委任状の「委任事項」欄が白紙であったことに照らせば、第一借用証書について、甲野が白紙に署名させられて作成されたものでないかとの疑いが十分に感じられる。

これに、乙山・戊田の嘱託の際における人相・風体などを併せ考慮すると、第一消費貸借は、当時のいわゆるバブル景気にともない、暴力団員等が不動産取引に不正に介入して利益を得ることを計画して仮装されたことが疑われるべき客観的状況が存した。

(3) 第一委任状の補充について

公証人は、代理人が持参した委任状の委任事項欄が空欄のままであった場合、代理権の存否、その内容と当該公正証書の嘱託内容が一致するか否かについて疑うべき客観的状況があるといえるから、右代理人に対し、本人に自筆で委任事項欄を記載させるように指導したり、直接本人に対し、電話等で代理権の有無・内容を確認すべきであり、これによって初めて右疑いが払拭されるというべきである。

しかし、丙川公証人は、第一委任状の「委任事項」欄が空欄であり、乙山の代理権を疑うべき客観的状況があるにもかかわらず、これを看過して、乙山に対し、その場で右空欄の補充するように指導し、嘱託を受理した。

(4) 第二消費貸借の不存在ないし無効の疑い

丙川公証人は、第二公正証書を作成する際、第一公正証書の作成嘱託からの時間的間隔が短いこと、本件各借用証書の作成日が第一借用証書と第二借用証書と同一であるのに、二回に分けて公正証書作成嘱託がなされたこと、第二借用証書の記載を見れば、甲野が住所・氏名のみを記載したことが明白であること、差入手形や不動産担保について記載がないことなどから、第二消費貸借の存在を疑うべき客観的状況が存在した。

(5) 第二委任の補充について

丙川公証人は、第二委任状の「委任事項」欄が空欄であったのに乙山の代理権を疑わず、乙山に対し、その場で補充するよう指導したうえ、右嘱託を受理したのであって、前記2(二)(3)と同様の過失がある。

(三) 通知義務懈怠

公証人は、公正証書が代理人の嘱託により作成された場合、本人に対し、公正証書が作成された旨通知すべき注意義務があり(規則一三条の二)、本件においても、丙川公証人は、甲野に対し、公正証書作成に関する通知をすべきであったのに、丙川公証人はこれを怠った。

3 因果関係

丙川公証人は、前記2(二)の注意義務(審査義務)に違反して、本件各公正証書を作成したのであり、また、同(三)の注意義務(通知義務)に違反したため、甲野は、少なくとも第二公正証書の作成を回避する機会を失った。

この結果、甲野は、別件訴訟及び本件訴訟の各提起を余儀なくされたのであるから、丙川公証人の右各注意義務違反と甲野の損害との間には因果関係が存在する。

4 甲野の損害 合計一五一一万七六〇〇円

(一) 別件訴訟(和歌山地方裁判所平成五年(ワ)第七五八号事件)の提起及び遂行に要した費用 計一三一一万七六〇〇円

(1) 印紙代 七一一万七六〇〇円

(2) 弁護士報酬 六〇〇万円

(二)本件訴訟に関する弁護士費用 二〇〇万円(印紙代を含む。)

5 被告の責任

公証人は、国家賠償法一条に規定する公務員であり、公証人の行う公正証書作成等の公証事務処理は、国の公権力の行使にあたる行為であるから、同法一条に基づいて、被告は原告に対し、丙川公証人の過失により甲野に生じた損害を賠償すべき義務がある。

三  被告の主張

1 本件の経緯

丙川公証人は、第一公正証書作成嘱託がなされた際、甲野の委任状(第一委任状)の「委任事項」欄が空欄であったので、乙山に対し持ち帰って補充するように指示した。乙山は、一旦それを持ち帰り、数時間後、丙川公証人に対し、右空欄を補充した委任状を提出した。そこで、丙川公証人は、記載事項を確認のうえ、嘱託を受理した。

第二委任状の「委任事項」欄は、嘱託時に既に記載されていた。

2 公証人の注意義務

公証人は、契約締結等の事実を形式的に証明する機関であり、公証人の行う公証行為は、行政機関が、関係者間に争いのない私法上の権利に関する事実又は法律行為等につき、公証機関としての認識を表示する証明行為である。

したがって、公証人が公証事務の嘱託を受けた場合の法律行為の法令違反の有無、有効性、当事者の行為能力の有無に関する公証人の審査は、形式的なもので足りるというべきであり、さらに、その際の審査の資料は、右公証事務を処理する際の当事者の陳述及びその提出資料に限定されるというべきであり、規則一三条一項に規定される関係人に説明等を求める義務も、前記の提出資料等を資料として、その中で法令違反を窺わせる点があるなど、疑義がある場合に初めて生ずるというべきである。

本件において、委任状等の記載から直ちに甲野の知的障害を疑うことはできない。また、債権額や物的担保の定めの有無等は法律行為の無効、取消原因となるものでないから、債権額が高額であり、また、物的担保の定め等がないからといって、直ちに、法律行為の無効等を疑うべき状況にあるとはいえない。

丙川公証人は、必要とされる審査義務を尽しており、過失はない。

3 規則一三条の二第一項の通知は、本人に同項各号所定の事項を通知することにより、当該公正証書の存在を認識させ、早期にその執行力の排除を求める機会を与えることを目的とする。

すなわち、右通知は、後に作成される可能性のある公正証書の作成を未然に防止するものでなく、さらに、本件において、第一公正証書作成時に第二公正証書の作成を予見することは困難である。したがって、第二公正証書の作成による損害の発生の予見可能性を前提に、その損害防止のため、公証人による通知義務を措定し、その懈怠を問題にするのは妥当でない。

四  主たる争点

丙川公証人の過失の有無(本件各公正証書作成の経緯、公証人の注意義務の範囲)、甲野に生じた損害額

第三  争点に対する判断

一  関係者等について

前記争いのない事実及び《証拠略》によれば、次の各事実が認められる。

1 甲野について

甲野は、大正八年一二月一五日生まれの女性であり、昭和六〇年二月以降、和歌山市《番地略》に一人で居住していたが、同所及びその周辺等に多数の不動産を所有していた。

甲野は、平成三年当時(七一歳)、精神遅滞等に基づく中程度の精神障害を有し、事物の弁別能力は障害されていた。

2 乙山らについて

丁原は、平成三年五月当時、いわゆる暴力団「乙野組二代目丙山一家」の「若頭」であり、また、その傘下の暴力団「丁川会」の組長であった。なお、同会の事務所は、大阪市淀川区《番地略》に置かれている。

甲田、乙山は、丙山一家の組員、戊田は、丁川会の組員であった。

3 丙川公証人について

(一) 丙川公証人は、昭和六三年一二月に戊野地方検察庁検事正を最後に検察庁を退職し、昭和六四年一月六日、大阪法務局所属の公証人に就任した。

丙川公証人は、同日以降現在まで、公証人丙川松夫役場(以下「丙川役場」という。)において、公証人の事務を遂行している。

(二) 丙川公証人は、他の四名の公証人と共同で設置している大阪市北区甲原二丁目所在の乙海ビル三階にある「丙野公証役場」と呼ばれる事務室内において、それぞれ公証役場を開いている。

丙川役場は、丙野公証役場事務室内の最も北側、右事務室の入口から入って最も左側に位置し、他の公証人の役場との間はついたて及びロッカーによって仕切られ、職員は、丙川公証人の他書記三名によって構成されている。丙川公証人の事務机は、丙川役場の事務室内の東側の窓を背にして設けられ、右机の前には、折畳みのいすが三脚置かれていた。

丙川役場の所属職員数、事務机の位置等は、平成三年五月以降、現在まで、変更されていない。

(三) 丙野公証役場では、毎日順番で公証人が一人ずつ受付当番をし、公証人役場に嘱託のため初めて訪れた者に対し、公正証書の作成や必要書類に関する相談、会社設立の際の定款の認証、私署証書の認証等の事務について応対し、提出書類が具備していれば嘱託を受け付けている。

丙川公証人は、平成三年五月一三日(月曜日)ないし同月一八日(土曜日)の週のうち、同月一四日及び同月一八日に受付当番をしていた。

(四) 丙川公証人は、公正証書の雛形用紙を使用できる場合であっても、嘱託されたその日に公正証書を作成することはせず、全体の事務量を考慮のうえ、通常は数日先までに作成するものとし、嘱託人に対し、数日先の日に調印に来るよう指示している。

二  本件の経緯

前記争いのない事実のほか、《証拠略》によれば、次の各事実が認められる。

1 丁原は、平成三年二月ころ、資産家である甲野が一人暮らしのうえ、精神障害のため事物の弁別能力が障害されているのを奇貨として、乙山を甲野の相続人に仕立て上げ、その財産を奪取しようと企て、乙山を甲野の養子とする旨の内容虚偽の養子縁組届をほしいままに作成し、平成二年二月四日、和歌山市役所に届け出た。

ところが、甲野の親戚が甲野方に出入りしていたため、丁原は、早急に甲野財産を奪取しようと考え、戊田及び乙山に対し、甲野の所有する不動産の調査を命じたところ、甲野所有の不動産には訴外甲野夏夫や同甲野秋夫のものもあり、戊田らが所有権移転登記手続を依頼しようとした司法書士から、所有者に会わないまま所有権移転の手続を代理することはできないと断られた。

2 第一公正証書の作成経過

(一) 前記計画の頓挫を経て、丁原らは、平成三年四月半ばころ、丁原を債権者、甲野を債務者とする内容虚偽の公正証書を作成し、これを使用して甲野の資産を奪うことを企てた。

すなわち、丁原は、甲野が事物の弁別能力が低いのを奇貨として、甲野をして、第一借用証書(消費者金融に使用される様式のもの)、領収証及び印鑑登録証明書交付申請の委任状の各用紙にそれぞれ自己の住所氏名を記載させ、また、公正証書作成嘱託用の委任状用紙(第一委任状)の「職業」欄に「農業」と記載させ、署名させたうえ、丁原において右各書面に甲野の実印を押印した。

さらに、丁原は、乙山をして、同年四月二六日、甲野の印鑑登録カード及び右委任状を用いて、和歌山市長から甲野の印鑑登録証明書五通を取得した。

丁原、甲田、乙山、戊田は、同年五月半ばころ、前記丁川会事務所に集まり、前記借用証書及び領収証用紙の各空欄部分を補充し、甲野名義の第一借用証書及び一〇億円の領収証を作成し、さらに戊田は、丁原の指示で、同月一三日、丁原、乙山、戊田の印鑑登録証明書を数通、取得した。

(二) 丁原は、乙山及び戊田に対し、平成三年五月一三日ころ、電話をかけ、翌一四日の朝、公正証書作成嘱託のため前記全日空ビル一階の喫茶店に集合するよう指示した。

丁原、甲田、乙山、戊田は、同月一四日午前九時ころ、右喫茶店に集まり、丁原は、乙山をして第一委任状の代理人氏名欄に自己の氏名を記載させたうえ、乙山及び戊田に対し、丙野公証役場で一〇億円の公正証書の作成を嘱託するように指示した。

乙山及び戊田は、第一委任状、丁原から戊田あての公正証書作成嘱託に関する委任状、甲野、丁原、乙山、戊田の各印鑑登録証明書、第一借用証書などを所持して、丙野公証役場に赴いた。ただし、右各委任状は、いずれも裏面の「委任事項」欄及び表面の作成日付、公証人氏名欄が空白のままであった。

なお、乙山及び戊田の人相・風体が、公証人からみて、特に不審を抱くべきようなものであったとは認められない。

この点に関する戊田証言は、丙川供述に照らし採用することができない。

(三) 丙川公証人は、平成三年五月一四日、受付当番であった。乙山及び戊田は、同日午前九時三〇分すぎころ、丙川公証人の事務机の前の折り畳みのいすに座り、丙川公証人と面接し、第一公正証書の作成を嘱託した。

乙山らは、その際、第一委任状、丁原の委任状、甲野、丁原、乙山、戊田の各印鑑登録証明書を提出したので、丙川公証人は、右各委任状の「代理人氏名」欄の確認と、委任者である甲野の印影と印鑑登録証明書の印影を照合し、両者が同一であることを確認した。

また、丙川公証人は、債務者と代理人がいずれも「甲野」姓であったので、両者の関係を尋ねると、乙山は、甲野の養子である旨回答した。丙川公証人は、養子縁組をした理由等は尋ねなかったが、甲野の印鑑登録証明書に甲野が和歌山市秋月に居住している旨記載されたていたので、乙山及び戊田に対し、「秋月」の所在位置を尋ねたところ、同人らから、秋月はJR和歌山駅に比較的近い位置にあることなどの回答を得た。

(四) 第一委任状及び丁原の委任状の「委任事項」欄は、いずれも空欄であったが、丙川公証人としては、それまでの経験によって、初めて公正証書作成を嘱託する者にとって「委任事項」欄、特に発生原因欄の記載方法が難しく、空欄の場合が少なくないことから、右のように空欄であったこと自体については特段の不審は抱かず、「委任事項」欄の補充内容や、貼用印紙額を確認するため、乙山及び戊田に対し、原契約書がないかを尋ね、右両名は、第一借用証書を提示した。

丙川公証人が、第一借用証書の収入印紙、筆跡、印影を確認したところ、印紙税法所定の額である収入印紙二〇万円が貼られており、また、第一借用証書の筆跡と甲野の右委任状の署名の筆跡が同一であり、さらに、第一借用証書の甲野名下の印影はその印鑑登録証明書の印影と同一であった。

(五) 丙川公証人は、代理人による嘱託を受理した場合、委任状の「委任事項」欄中「元金」欄、債権債務の「発生原因」欄、「弁済期」欄など重要部分が空白の場合、後に授権の有無・内容等で紛争が生じることを懸念して、代理人と称する者にその面前で補充することはさせず、一旦、その委任状を持ち帰らせ、補充したものを持参しなければ、右嘱託を受理しない方針で公証事務の処理に当たっていた。

本件の場合も、丙川公証人は、乙山及び戊田に対し、各委任状の「委任事項」欄を、第一借用証書の記載にならって、「発生原因」欄には、「平成三年四月二四日付借用証書に基づき借り受けた消費貸借契約上の債務」などといった要領で記載するように、口頭で委任事項の記載方法を教示し、委任状を完全なものとしたうえで改めて持参するように右書類を持ち帰らせた。丙川公証人は、その際、委任状の数字部分を漢数字、算用数字のいずれで記載するか、漢数字の場合、どのような漢字を用いるか等については特に指導しなかった。

乙山及び戊田は、第一借用証書等の記載を補充するため、丙川役場から退出した。

(六) もっとも、乙山供述や戊田供述は、第一公正証書及び第二公正証書のいずれの作成嘱託の場合も、丙川公証人が乙山及び戊田に対し、本件各委任状の「委任事項」欄の空欄の補充内容について、用いるべき数字を含め、一句一句口授し、乙山及び丁原において丙川公証人の面前で、そのとおりボールペンで補充し、丙川公証人は、こうして補充された委任状を受領して公正証書の嘱託を受理したとしている。

しかし、本件各委任状の空欄の補充状況に関する乙山及び戊田の証言は刑事事件の捜査段階における供述調書である甲第一七、第一八号証に比べても極めて詳細な内容となっているが、一方、右両名が本件各公正証書に署名した際の状況についてはあいまいな供述をするのみであるなど不自然な点が存在する。

そして、第二委任状の「委任事項」欄は、「元金」欄のみ「貳拾億圓也」などと記載されているが、その他の数字部分はいずれも「二」、「三」、「十」といった文字が用いられている。仮に、丙川公証人が数字に用いる漢字の種類について指定するのであれば、第二公正証書で用いられている「弐」という文字を指示すると思われるし、これが第二借用証書の金額欄のとおり記載するように指示した結果であれば、第一委任状においても同様に第一借用証書の金額欄で用いられている「壹」の文字を記載するように指示し、その旨記載されているはずであるが、第一委任状においては「壱」の文字が用いられている。仮に丙川公証人が乙山や戊田に対し、本件各委任状に補充すべき数字の文字を指定したのであれば、このように数字を使い分けする理由はないといわなければならない。

さらに、第一委任状には第一借用証書の文言にはない「利息の支払時期」が記載されている。

また、丙川公証人の面前における第一委任状の空欄の補充状況に関しても、乙山証言と戊田証言には食い違いが存在する。

以上の点を考慮すると、乙山供述及び戊田供述の信用性には疑問があり、前記認定を左右することはない。

(七) 乙山及び戊田は、同日(一四日)午前中に、再び丙川役場を訪れ、丙川公証人と面接し、前記各印鑑登録証明書、第一委任状等を提示したので、丙川公証人は、右書類を点検、審査した。第一委任状及び丁原の委任状の「委任事項欄」はいずれも全部記載されていた。

そこで、丙川公証人は、右嘱託を受理することとし、右両名に対し、調印日時の希望日を尋ねると、できるだけ早い方がよいとのことだったので、翌日(同月一五日)午前一〇時を指定したうえ、実印と手数料、収入印紙を持参するように告げた。また、右各委任状の公証人氏名欄の部分に自分の氏名のゴム印を押印した。

(八) 乙山と戊田は、同月一五日午前一〇時ころ、丙川役場を訪れたので、丙川公証人は、右両名に対し、作成した第一公正証書を見せ、読み聞かせて、署名押印させた。丙川公証人は、その際、右各委任状の作成日が空欄だったので、右両名に対し、補充を指示し、調印後、戊田には第一公正証書の正本、乙山にはその謄本が交付された。

(九) 丙川公証人は、以上の過程を通じ、第一借用証書や第一委任状の記載の仕方や金額等から、甲野の知的能力、金銭借用の事実の有無、乙山の代理権の有無・内容等について疑ったりすることはなかった。

(一〇) もっとも、丙川公証人は、甲野に対し、第一公正証書が作成されたことを通知していない。

3 第二公正証書の作成経過

(一) 丁原は、その後、債権者を丁原、債務者を甲野とする二〇億円の公正証書を作成しようと企て、前記2と同様に、甲野に対し、第二借用証書の用紙、領収証の用紙に署名等をさせ、その名下に実印を押した。

丁原、甲田、乙山、戊田は、平成三年五月二六日ころ、大阪市内のファミリーレストランに集合し、乙山において第二借用証書や領収書の金額等を記載するなどして、第二借用証書及び二〇億円の領収書を作成した。

右四名は、同月二八日午前九時ころ、前記喫茶店に集合し、乙山及び戊田が、丁原に指示されて、前回と同様に丙野公証役場に向かった。

乙山及び戊田は、第一公正証書の作成の嘱託を通じて丙川公証人と面識ができていたので、同日九時三〇分すぎころ、丙川役場に行き、丙川公証人と面接し、第二公正証書の作成を嘱託し、甲野及び丁原の各印鑑登録証明書及び公正証書作成の嘱託に関する委任状を提示した。右各委任状の「委任事項」欄は全部記載されていた。丙川公証人は、乙山及び戊田をともに記憶していたので、右両名の印鑑登録証明書の提出を求めなかった。丙川公証人は、公正証書に貼付する収入印紙額を判断するため、右両名に対し、原契約書の提出を求め、右両名は、第二借用証書を提示した。丙川公証人は、右書面には印紙税法所定額である収入印紙四〇万円が貼付されていることを確認し、その他の書類についても点検、審査のうえ、嘱託を受理した。

(二) 丙川公証人は、乙山らが再度、公正証書の作成嘱託をする理由について、銀行等との関係で第一公正証書の金額では不足が生じ、第二公正証書を作成する必要が生じたのではないかと推測したものの、公正証書を二回に分けて作成する理由については疑問を抱かず、また、右両名に対し、借受日等について質さなかった。

乙山及び戊田は、調印日として指定された同月二九日午前九時三〇分ころ、再び丙川役場を訪れたので、丙川公証人は、前回と同様の要領で第二公正証書に調印させた。

四  丙川公証人の過失の有無について

1 審査義務違反の有無について(公証人法二六条、規則一三条一項関係)

(一) 公証人の審査義務の内容について

(1) 公証人法二六条は、公証人が法令に違反した事項、無効の法律行為及び無能力により取り消し得べき法律行為について公正証書を作成することを禁じており、規則一三条一項は、公証人に、法律行為が有効であるかどうか、当事者が相当の考慮をしたかどうか又はその法律行為をする能力があるかどうかについて疑いがある場合は、関係人に注意し、かつ、その者に必要な説明をさせなければならない旨規定する。

したがって、公証人は、公正証書を作成するに当たり、法律行為の法令違反の有無、法律行為の有効性、行為能力の有無について審査すべき義務を有している。

(2) ところで、公証人は紛争解決のための判断機関でも、調停機関でもなく、契約締結等の事実を形式的に証明する機関であるにすぎない。公証人の行う公証行為は、行政機関が特定の事実又は法律関係の存否を公に証明する行為であり、当事者その他の関係者の嘱託により、法律行為その他の私権に関する事実又は法律行為等について、公正証書を作成するなどして公証機関としての認識を表示するものである(公証人法三五条参照)。法は、契約公正証書制度を設け、国民に対し、簡易迅速に証書等を取得することを可能にし、この趣旨にのっとり、公証人は、正当な理由がなければ、嘱託を拒むことができないとされている(同法三条)。

また、当該作成嘱託にかかる法律行為についての法令違反、無効、取消し等の事由の有無は、最終的には裁判所の判断によって明確にされるものであり、公正証書には既判力がなく、また、公正証書に基づく強制執行に対する請求異議の訴えにおいては、公正証書に表示されている請求権の根拠となる法律行為について、右のような瑕疵を異議事由として主張できると解されている。

(3) さらに、公証人は、公正証書を作成する際の審査資料について、当事者の陳述等(公証人法三五条)のほかは嘱託人が人違いでないことを証明させる方法として、印鑑証明書の提出その他これに準ずべき確実な方法(同法二八条二項、三一条)、代理人の権限を証明させる方法として、委任状及びその成立の真正を証明するための印鑑証明書の提出(同法三二条一項、二項)、第三者の許可又は同意を要する法律行為についてその許可又は同意を証すべき証書等の書面の提出を規定するにすぎない。

(4) 公証人が公正証書の作成を嘱託された際に行うべき審査に当たり払うべき注意義務の内容は、前記公正証書作成の簡易・迅速性の要請と、無効な法律行為等について公正証書が作成されることによって不利益を受ける関係者の保護の要請や公証制度の信頼性の確保の要請を総合勘案して決せられるべきであるが、以上の規定を総合して考えるに、次のとおりであると解すべきである。

イ 公証人には、公証行為を行う前提として、法令違反行為の有無等を審査すべき権限及び義務があるが、そのための審査は、公証人法に規定する前記資料等の提出を求め、右資料及び公証人が当該公証事務及びそれ以前の公証事務の過程で認識した事情に基づいて行えば足りる。

ロ したがって、公証人としては、これらの審査資料から、当該嘱託にかかる法律行為の不存在ないし無効、本人等の意思無能力、当該代理人と称する者の代理権の欠缺等の疑いを抱くべき相当な事情がある場合、右疑いを払拭するために、関係者に対し注意したり、必要な説明を求めるべきであって(規則一三条一項)、それによっても右疑いが払拭されない場合には、当該嘱託を拒否すべき正当な事由があると認められ(公証人法三条)、右嘱託を拒否しなければならない。

(二) 丙川公証人の注意義務違反の有無について

(1) 丙川公証人が乙山らに対し提出させるべき資料について

丙川公証人は、乙山らに対し、本件各公正証書の作成の嘱託を受けるに際し、その都度、甲野及び丁原の印鑑登録証明書、本件各委任状及び丁原の各委任状、本件各借用証書の提出を求め、さらに、第一公正証書の作成の嘱託を受ける際には、代理人である乙山及び戊田の印鑑登録証明書の提出を求めるとともに、甲野と乙山の関係(養子関係)を質している。

したがって、丙川公証人が本件各公正証書の作成嘱託を受理するに際し、必要な資料は全て提出等されていることになる。

(2) 甲野の知的障害等について

本件各借用証書、本件各委任状における甲野の署名や住所・職業の文字・記載方法、印鑑登録証明書の年齢(七一歳)等をもってしては、直ちに、甲野に知的障害が生じ、その法律行為能力の存在について疑いを抱くべき相当な事情があるとまではいえない。

(3) 第一消費貸借の有無について

第一借用証書の用紙は消費者金融に使用される様式のそれであり、第一借用証書には、差入手形、不動産担保について記載はなく、第一消費貸借の金額は一〇億円と高額であるが、右の当時いわゆるバブル景気の影響でこの程度の金額の金銭消費貸借に関する公正証書の作成嘱託を受けることも稀でなく、右の事情をもってしても直ちに、第一消費貸借が不存在ないし無効であることを疑うべき相当な事情があるともいえない。

さらに、第一委任状の委任事項欄が空白であったとしても、このことから直ちに、甲野が、第一借用証書の金額欄等全部空欄の状態で署名だけさせられたことが明白であるとまではいえない。

なお、乙山や戊田の人相・風体が公証人からみて、特に不審を抱くべきようなものであったことを認めるに足りないことは、前記説示のとおりである。

(4) 第二消費貸借の有無について

丙川公証人が認識した第一公正証書の作成時期は、第二消費貸借の存否に関する審査に必要な資料として考慮されるべき事情である。

しかし、第一公正証書と第二公正証書の作成嘱託の間隔が二週間しかなく、また、第一消費貸借及び第二消費貸借の契約日がいずれも平成三年四月二六日と同一であったことをもって、直ちに、第二消費貸借の不存在ないし無効を疑うべき相当な事情があるとまではいえない。

第二借用証書に差入手形、不動産担保に関する記載がされてないことについては、(3)で説示したことと同様である。

(5) 本件各委任状の「委任事項」欄の補充について

イ 公正証書の作成の嘱託をする際に、公正証書作成嘱託の委任状の委任事項欄が空欄になっている場合、委任事項の内容が委任状から判明できないのであるから、委任事項の特定が困難となり、代理人がその権限を越える行為をし、又は完全な無権代理行為が行われるおそれがあり、ひいては法律行為の無効を招来する危険を生じることとなる。このような場合、公証人としては、代理人と称する者等に対し、委任事項を明確にするよう釈明を求めるなどして、当該代理人が特定の事項について代理権を有しているかどうか、代理人の選任行為が有効であるかどうかを確かめ、代理権の内容等を慎重に確認しなければならないというべきである。

その際、代理人と称する者が公証人に対し、代理権の内容を一応説明したとしても、その面前で右委任事項欄を補充したような場合には、公証人としては、右補充行為自体について本人の同意がないことを了知しているから、補充された委任事項について代理権の存否を疑うべき相当な事情があるといわざるをえない。したがって、公証人としては、その面前で委任事項が補充された場合には、本人に連絡する等適宜の措置をとり、当該事項について有効な授権がなされていることを確認すべき義務がある。

右のような措置をとらない場合には、公証人としては少なくとも、代理人に対し、右委任状を一旦持ち帰らせ、委任事項を補充して完全な委任状としたうえで、再度、公正証書作成の嘱託に及ぶように指導することを要するというべきである。

ロ もっとも、原告は、公証人には、この際、右委任状の委任事項欄を本人の自筆により補充させるように指導したり、本人に対し直接電話等で代理権の有無・範囲を確認すべきである旨主張する。

しかし、本人が自筆により委任状を記載することは、公正証書作成の嘱託に関する代理の有効要件でなく、代理嘱託が本人の意思に基づくものであればよいのである。

そして、代理人が委任事項欄が空白である委任状を一旦持ち帰り、補充されたものを再度提出した場合には、有効な代理行為の形式が一応整えられたものというべきである。

前記のとおり、一般人にとって公正証書の作成の代理嘱託の場合に委任事項を正確に記載することが困難であることから、往々にして委任事項を空白とする委任状が提出されることに鑑みると、公証人に対して当初提示した際に空欄であったという一事のみでは当該代理人に対して有効な授権がないと疑うべき相当な事情ということはできない。第一委任状の提出を受けた丙川公証人は、乙山らに対し、第一借用証書の提示を求め、その筆跡・印影が委任状のそれと同一であることを確認しているのであるから、むしろ、乙山の代理権について疑うべき相当の事情がないともいいうるのであって、本人に対し直接、電話等で代理権の有無・内容を確認する権限や義務も生じないというべきである。

(6) 以上のとおり、本件各公正証書の嘱託は、最低限度の外形的な有効性を備えており、丙川公証人において、本件各公正証書作成に関し、乙山の代理権について疑うべき相当な事情があったとは認められないから、丙川公証人がこれを受理したことが違法であったとまで認められないというほかない。

2 通知義務違反について(規則一三条の二第一項関係)

公証人は、代理人の嘱託により公正証書を作成した場合に本人に右証書の件名等を通知しなければならない(規則一三条の二第一項)。

丙川公証人が第一公正証書作成後に右の通知をしなかったことは、明らかに右規則に基づく義務を怠ったものであり、右違反がなければ、少なくとも第二公正証書の作成を防止し得る端緒となる可能性があったことは否定できない。

しかし、同項による通知は、公証人が本人に対し、所定の事項を通知することにより、本人に当該公正証書の存在を知らせ、早期にその執行力を排除する機会を与えるためになされるものであって、同様の公正証書の作成を未然に防止することまでを予定したものではない。

すなわち、丙川公証人による右通知義務は、公証人が嘱託を受理した場合に内容虚偽の公正証書の作成を回避するための注意義務までは含んでいないというべきである。

したがって、これと異なる前提に立つ原告の主張は採用できないし、本件においては、甲野の能力、状況からすれば、たとえ右通知が行われたとしても同人がこれに不審を抱き、第二公正証書の作成を回避することができたと認めることはできず、通知義務違反と第二公正証書作成との間に相当因果関係を認めることはできない。

三  結語

よって、原告の請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 林 醇 裁判官 亀井宏寿 裁判官 桂木正樹)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例